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認知症の介護は闘いだと思います、壮絶な介護でした

認知症の初期症状はなかなか気づきません。介護で周りが見えなくなって気がつけば壮絶な毎日を過ごしています。経験から戦いと言ってもいいことに気がついたのは何年も経ってからでした

目次

アルツハイマー型認知症になっていく義母に気づくまで

私と義母の介護と言う闘いになったアルツハイマー型認知症で、義母がどんな行動をしていったかを知っていただきたいと思います。

義母の言動が変だと気がついたのは2011年に亡くなった義父の葬儀の後からでした。
最初は義父が亡くなったショックで変になっているのだろうと解釈し、義父の亡くなった後の事を絶えず話している義母を連れていろいろ回りました。もちろんお役所関係です。

行く先々で関係ない話をし始める義母をたしなめながら事務手続きをしていたのですが、担当になってくださった方の気の毒そうな顔が今でも目に焼き付いています。

それから、しばらくは言動が変ではありながら義母に対して小言の多かった義父から解放されたせいか車で自由に走り回っていました。
そのころ住まいは同じ敷地内ですが建物は別の生活をしていました。

そのため深夜まで出歩いている母の事は知らなかったのですが、49日が過ぎた当たりで義母を見ていて変!と思いたくないけど、現実を見なければと様子をみていました。
どこかで不安が広がっていきましたが、家は別だけれど何となく急に一人になった義母のために夕食を一緒にするようになりました。
しかし、ここからが現実を見なければならなくなっていったのです。

義母の物忘れの酷さを認知症と気づかなかったこと

義母が義父が亡くなった後のショックから様子が変と思い込んでいたのが、夕食を一緒にするようになり、この人大丈夫なんだろうかと思うことが多々出てきました。
夫が仕事から帰り、夕食を取りに行くと最初は良かったのですが「俺の食事は?」と聞いてくることが多くなりました。
まさか義母が夫の分まで食べてしまうことはないと「義母さん夫さんの御飯どこ?」と聞くと言い訳が多く、取り繕う言葉のオンパレードでした。

それが義母の認知症だと気がつけばよかったのですが、当時は気がつきもせず、物忘れが激しくなったと解釈してしまったのが間違いの始まりでした。

そんな頃に一人にはしておけないと主屋の続きに家を建て増ししました。もちろん私たちはここでしっかり生活できるようにキッチン、浴室、トイレ、個々の部屋を確保しながらの建て増しです。

ここからが本当の闘いが始まった気がします。

義母がアルツハイマー型認知症と知らされた時の思い

義母の物忘れの言動は日を追うごとに酷くなっていきました。

ある日、義弟から「義姉さんおふくろの病院〇〇日なんだけど行くよね?」と決めつけたような電話が入りました。
いきなりで言葉も出ませんでした。
義母は義母なりに物忘れの酷さに悩んでいたようで、家族に黙って物忘れ外来に受診したようなのです。

家族と一緒に来てくださいと言われて義弟に頼んだようです。
そして、何も知らない私に義弟は責めるような口ぶりで一緒に病院行くよねと言ったのですが、義弟にすればこんなになるまで気がつかないなんてと言う思いがあったのでしょうね。

その時の私は現実を知ることより、ショックと何故義弟に?という怒りがあり、一緒に行きませんでした。

もちろん義弟からは報告もなく、しばらく義母に振り回される毎日を過ごしていたのですが、ある日義母が「薬がない!」と探しているのです。「あんた知らんかね?」と疑われる始末でした。

そして、いろいろ薬の薬情や領収書を見つけ出し、近くの主治医に通院してアルツハイマーの薬を処方されていることを知ったのです。

無くした薬はほぼ一か月分です、もう一度出してもらいに行き状況を説明しました。そこで義母の主治医に叱り飛ばされました「何をしている、家族が管理しなくてどうする!」と一喝されました。
あの時は理不尽な叱られ方に、もうイライラマックスで嫁に行ってから嫁いびりが生きがいのような義母の顔を見て目眩さえ覚えました。

言い訳も聞いてくれなかった義母の主治医とは関係を切り、私の主治医に義母を任せました。
驚いたことに義母は私の主治医の患者だったのです。私を叱り飛ばした医師は義父の主治医だったのです、と言っても先代が主治医だけでしたが。

それからは私の主治医が私の大きな支えとなってくださいました。

認知症の介護が闘いと言う理由

認知症の介護は闘いであると思うのです。寝たきりなどの介護も大変です、実際に義祖父母がそうでしたから、その介護も経験しています。

認知症は元気なのです。
ニュースなどでとんでもなく遠い場所で見つかったなどと聞きますが、移動は誰にも分からないこともあります。
義母も認知症の初期のころの事ですが、仕事から帰っても家にいません。
そのころは帰宅し、食事を作ってから義母を探す毎日になっていました。
大方の日は畑や田んぼにいましたが、家の近くにお墓があるのですが何かのスイッチが入るとお墓掃除に行き帰れなくなるのです。

2時間以上探し、もうこれは警察に行こうと思ったら帰ってきてお墓をでて右と左を間違えたとなんでもなく説明してくれるのです。

時には異様に脇腹のあたりを痛がるので変だと直感し、医者に連れて行けば肋骨が2本折れているとか、何をどうすればこんなことになるのか不思議でしたが考えるすべもなく、ただただ疲れ果てる毎日でした。

物忘れの実態

認知症は忘れたことを忘れる、つまりご本人にとっては無かったことと同じなのです。
でも普通に考えてそれはあり得ない。
認知症の方は物を無くすことが多くあります。何かの物取られ感から隠さなければと言う思いから隠しますが、隠したことを忘れるのでどこに隠したかわかりません。

義母の場合ですが、一番無くしたのか玄関の鍵です。
毎回、鍵が無い無いと騒ぎ立てます。デイサービスに通所していた時も帰ってくるときは私はまだ仕事ですので義母に鍵を持たせていましたが、いざ出かけようとすると鍵が無いのです。
それを、どれだけ繰り返したでしょうか。
スペアキーもいくつ作ったか覚えていません、探すととんでもないところから出てきたりします。
食器棚の中になんて当たり前、納戸の中の古い壺の奥底に隠していたこともあります。

その次が金庫の鍵でしょうか。金庫に異常に執着し、金庫を義母の部屋に設置し金庫の鍵を肌身離さず持っていたのですが、それでも無くすのです!
職場に電話が何度も入ったことがありました「金庫の鍵が無い!あんた知らんかね!」と強い口調で電話がかかってきた日々を苦々しく思い出すこともあります。

一番、驚いたのは「金庫がなくなった!」と電話が入り「は?金庫って誰が持って行くの?」と言うことがありましたが、それは金庫の場所を夫に頼んで変えてもらったのを忘れた結果でした。

義母は認知所になっても電話はかけられました。あまりに電話をかけるので電話帳を隠しましたが自分自身が無くすので、自作の電話帳をいくつも持っていたので意味ありませんでした。

結局、最後はデイサービスの方の知恵をお借りしました電話線を抜きました。かけてもかけても通じない電話に怒り狂った義母は電話線をハサミで切りました。
そのまま、電話は解約の運びにしました。
電話は実は私達は別回線で持っていたので影響はなかったのです

隠したものを忘れる、これは本当に大変でした。

まとめ

義母との闘いは上記だけではありません。
命がけの事もありました。
農家であるがために、いくつもあった鎌を振り上げられたことは何度もありました。
もうね、殺してくれてもいいよって思ったこともあります。
それでも施設に入所するまでの毎日は闘いで気持ちが休まる暇もなく、聞いてくれる人もいなく孤立していきメンタル不調つまり介護うつになって行ったのです。

今はもう、あの頃の義母ではありません。別の人格になったのです。一時はボケ逃げしてと恨んだこともありました。

あの時、聞いてくれる誰かに出会ったら?もっと認知症について知っていたらと思うことはたくさんあります。
私は介護者さんが孤立することを一恐れています、介護は独りではできません誰かのサポートが必ず必要なのです。
壮絶な認知症との闘いを避けるために、独りで介護をしないでください。

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