義母が今年から要介護5になりました。要介護5とはどんな状態なのでしょうか
要介護5ってどんな状態?と思われますよね、ほぼ何も一人でできません病気や事故などで寝たきりになってしまった方の介護では時々聞かれるかもしれませんが、アルツハイマー型認知症で車椅子で生活し食事も促されれば自分でできる要介護5とはどんな状態なのか知っていただきたいと思います
目次
義母が認知症になり始めた頃の思い出
私は起業する前は歯科医院で医療事務として26年勤めていました、義母の嫁いびりからメンタル不調を自分自身が体験しました。
そして友人がメンタル不調になっていくのを悲しい思いで見ていることしか出来ず仕事をしながら心理カウンセラーの資格を取りました。義母がアルツハイマー型の認知症になっていったのです。
この仕事を始める前から認知症の義母との戦いが始まっていました、心理カウンセラーであっても認知症の人とのかかわりカウンセリングなんてしたこともない、おまけに結婚当時から嫁いびりに一生懸命だった義母の認知症を受け入れられるはずもなくというより気が付かなかった、ただ物忘れが激しくなったんだなと思っていました。
ある日、義弟から義母が認知症の疑いで認知症外来に通院し始めたことを聞き、驚きとショックと腹立ちを覚えたことがあります。
何故に義弟?おまけに検査結果を聞きに行く2回目の診察まで知らされなかったことに何故私に隠すのだろうという思いにいろいろな感情が爆発し、一緒に行かなくていいの?と義弟に言われ断ったことを覚えています。
それから、近くのかかりつけ医に紹介され、そちらに通院するようになったのですが、そんなことは聞かされてもおらず物忘れの酷くなった義母とはあまりかかわっていませんでしたが、何故いろいろ知らさされずに義弟が出入りしてたのかと言うと私達は義母と別棟に住んでいました。
ただ、そろそろ一人で暮らすには大変そうになってきたので主屋の一部を建て替えて一緒に住むことにしたのです。
それからが義母との本当の闘いになりました、アルツハイマー型認知症の初期ということは義弟から知らされず、薬を無くしたと大騒ぎしかも一か月分です。
訳も分からず、かかりつけ医に事情を話しもらいに行けば怒鳴られる「家族が薬を保管しないでどうする!」って、あまりの主治医の剣幕に返す言葉もなくひたすら謝り一か月分を保管するようになりましたが、いきなり怒鳴り散らされた義母のかかりつけ医には二度と行きませんでした、それは私のかかりつけ医に話したところ、なんと義母も私と同じ病院にかかっていたのです。
処方箋を見せ、それからは主治医にメンタル面もサポートしていただきながら義母の様子を見ていくことになったのです。
介護サポートを受けるようになった事例(我が家の事です)
在宅介護は今では普通に使っている言葉ですが介護保険制度は、2000年に作られた制度です義母が介護認定を受けたのは2012年1月からになります。
それまで、仕事をしながら義母の世話をしていましたが、義母の行動に翻弄され心身ともに不調を起こしていたのですが、誰に相談しても何もしてくれない、どうしてこんなことにばかりの毎日でした実家の母に相談しても嫁だから当然と冷たい一言でした。
ある日、なにげに取っておいたチラシを目にすると私ここに相談してもいいのだろうかと、恐る恐る電話をしました。
そこは地域包括支援センターだったのです。
電話で話をゆっくり聴いていただき、涙がこぼれました。そして一度伺いますねとおっしゃってくださり自宅に来ていただき私の話を聴き、義母の様子を見てくださり要介護認定への道筋が見えてきたのです。
そして調査員の方が来てくださり、主治医の意見書もいただき認定は最初は要介護1でした。
要支援ではなく要介護1が付いたのです。
担当は地域包括支援センターではなく居宅介護支援事業所になり、地域包括支援センターの方に紹介していただきケアマネジャーが決まりました、それが2011年の12月のことでした。
介護プランを作成していただき、利用開始は2012年1月からでした
これで楽になれると思った2012年1月2日義母が腹痛を訴え救急搬送しました、診断は胃の裏に穴が開いているかも?とのことでしたが年始休みでもあり専門医がいなく、1週間ほど入院しました。
もうこのころから認知症の症状はかなり進んでいました。
そして、しばらく自宅で様子見を果たし2月からデイサービス開始でした
私の希望は入浴と話し相手になっていただければいい!この2点だけでしたが、週に2回から始まり家にいる時間は相変わらず大騒ぎの毎日でした。
仕事から帰れば家にいない、探すことから始まるのです。それから夕食作り義母と2人で食べる夕食は味がしませんでした。
その間も認知症は進んでいき更新があった時要介護2を飛ばしいきなり要介護3の認定でした。
結構、認知症が進むのが早かったんだと後から思うばかりでした。
要介護3ではありましたが、まだらボケ(言葉は悪いですが)の状況で本当に大変でした。
盗まれた、無くなくなった、この2点が酷かった銀行なども勝手に紛失届をだしてしまう、近くの交番に電話をするなど自分の電話帳を持っていましたから知っている範囲電話かけまくりです。
要介護3になった時デイサービスの方に困り果てていると愚痴を言ったところ電話線を抜いてもいいですねって言われ抜いてみました。義母・・・電話がつながらいと苛立ちで電話線をハサミで切っていました、これにはあきれ返るばかりでした。
私たちの住まいになっているのは主屋続きの奥でしたので電話は別で引いていました親戚などからつながらないと連絡が入り説明をして謝ったことが何度あったでしょうか。
そのうちに電話も忘れているようで電話を解約し、電話機も撤去しても忘れると執着はなかったですね。
とにかく義母の電話への執着はすごかったです。
そして、畑にいて気に入らないと鎌を振り上げ「殺してやろうか」と言われ殺されてもいいやと「やれば」と言った覚えもあります。
仕事から帰れば義母を探す毎日にほとほと疲れ、ご近所さんに見かけたら声をかけていただけますかと?とお願いに回ったこともありました。
入所の決め手は、インフルエンザにかかりデイサービスにも行けなかったとき、外に出ないようにどんなに対策しても出て行ってしまう、軽いインフルエンザでしたので本人は調子が悪いことも気づかなかったようですね。
そんな義母にほとほと手を焼いた夫が切れました(私はこれくらいで?でしたが)「施設に入れてしまえ」とどなったのです。
それから、入所するまでの手続きは早かったです、ケアマネジャーさんが精いっぱい動いてくださったのと、主治医の意見書も問題なく、一応施設も私だけの考えに偏らないように娘に一緒に見てもらいデイサービスと同じ法人内の有料老人ホームに入所しました。
要介護5になるまでのまとめ
3年まえから今の施設に入所しておりますが、そのいきさつは2019年7月のブログ内に詳しく書いておりますのでご覧ください。
2019年10月より今の施設に入所し、元気で静かな義母の時間が訪れているのをある日感じることができました。
こちらにお世話になるようになり、ずっと介護者で苦しかった感情が少しずつ楽になったころ新型コロナウィルスにより、面会規制が厳しくなり、面会禁止も何度もありました。
1月22日現在面会禁止の措置が取られております、施設の方針で施設への支払いは施設に事務局に直接支払うことになっております、1月はあえませんでした。
それまでも予約制で1家族1人時間10分、マスク、フェイスシールド着用で2m離れての面会でした。ただたった一度先月は面会規制が緩み2人までの面会、マスク着用は当然ですが肩に手を置くなどの緩和になっていましたが、たった一度の緩和ですね。
要介護5になり、今はまだ名前は忘れていますが顔は覚えていますが一瞬ですね。
要介護5は、要介護状態等区分の中で最も症状の重い状態です。つまり、最も介護が必要な状態といえます。要介護5の場合、立ち上がって歩くことが困難で、1日中、ほとんど寝たきりのことも多いです。
要介護5とはどのような状態かですが
「要介護5」と判断されるポイントは、「食事、排せつ、入浴といった日常生活全般において全面的な介助が必要である」ことになります。これは「要介護4」とほぼ同様ですが、実際のところ寝たきりの状態である上、意思疎通が完全に不能となっている高齢者が該当となるケースがほとんどです。
まだ要介護3または要介護4のように感じますが、専門家がらの視点は要介護5なのでしょうね、通知が来たときは心の中に何か分からない、もやもやしたものが出てきました。
それは、義母への対する気持ちなのか、嫁いびりをされてきたボケ逃げなのか、ある意味の義母との戦いが別の闘いに
なってきたということなのかもしれません。
要介護などについては、ブログの最初のころに書いていますのでご参考にお読みください。
これからも認知症についての<知識、予防などをお伝えしていきたいと思っております。