終末期を迎えた家族の気持ち

介護をしている要介護者が終末期を迎えると看取りということを考えなければなりません。そこで私の今現在の気持ちをお伝えします。
義母は昨年春頃から意識レベルがアップダウンを繰り返し落ち着いたと思えば、8月にはコロナに感染したり足の骨折の疑い(骨の周りの炎症だけでした)、そして誤嚥性肺炎など昨年は事あるごとに施設から電話が入り、そのたびにドッキとすることが本当に多くありました。どこにいても出られるようにスマホを片時も離せませんでした。
今年は1月2日の夕方に施設から、また電話が入りお正って言うこともあり家族が全員そろっていました電話が入った時一瞬みんなシーンと固まりました。今回は指の骨折の可能性があるという報告でした。
今年も義母にドッキとさせられる1年が始まったのだなって思う年始めでした、昨年は食事が出来なくなってきている義母に対して出来なくなってきていると言う言が合っているのかどうか悩みました「一口、二口そして気分で飲む水分・・・」これを食事が取れていると表現していいのかどうか、夫と義弟と話し合い合いました。
最初、夫と義弟は私に任せますと言いましたが私は他人です、介護していても施設に行くのも私ですが私は決められません、決めるのは血の繋がった2人しか決められないのです。それを説明して2人が出した答えは食事を止めると言う結論でした。
主治医は一口でも食べられるのであれば続けさせてあげたいと言われます、対照的な2つの考えの間に挟まれ私はどうしていいのか分からず、ケアマネさん師長さんと話している時に涙したこともあります。私が涙を見せたのは初めてでした。
これは延命に入るのか、倫理観なのか、主治医は人として食べられるのであればという意見でした。この言葉に私は大いに悩まされました。2人が出した結論をお世話してくださる施設の師長さんと話し主治医の方針に従った形になり、その報告も2人に告げましたが結局2人は私と施設に任せると言うことで、今に至っています。
今の義母は指の骨折はあるものの顔色は良いように見えます、ケアマネさん師長さんの支えがなければ・・・義母は今は亡くなっていたかもしれません。いつ亡くなっても仕方ない状況でした義母はそれでも死の淵から帰って来ます義母の生命力には脱帽するばかりです。
認知症で会話も出来ない、ほとんど話しませんが時々何かをつぶやいていますがほとんど眠っていることの多い義母です、何がここまで義母を生かしているのか分かりません。
私は面会に行くことしか出来ませんが、もう13年の介護生活です施設にいても介護者であることは代わりません介護は先が見えないからこそ不安も大きくなります。私は失敗したなと思います夫をまきこめなかった事です義母の介護は夫はまだ会社員現役でした、もちろん私も前の職場で働いていましたが介護の全てを1人でやっていたのです。
介護は1人では無理です家族を巻きこみ役割分担を早いうちからやるべきでした、夫も今はリタイアして家にいますが、義母の事はどこか他人事なのです。
介護者は1人で抱え込みすぎます、家族が他人事でなくなるように介護者が1人で抱え込まないようによく割分担を早めにすることをお勧めします。
最期、終末期の心構えも家族で受け止める
終末期を迎えた家族は、さまざまな感情や思いを抱えることがあります。以下にその主な感情をまとめます。
1悲しみ
- 過去の思い出や共に過ごした時間を思い出すことで感じる喪失感。
2.不安
- 未来への不安(自分の生活や役割の変化)。
- 家族の健康状態や経済的な問題に対する心配。
3.罪悪感
- もっと何かできたのではないかという思い。
- 自分の感情(悲しみや怒り)に対しての罪悪感。
4.愛情
- 最後の時間を大切に過ごしたいという強い思い。
- その人に対する感謝や愛情を再確認する瞬間。
5.需要
- 終末を受け入れる過程での心の変化。
- 死という現実を受け入れることで、少しずつ心が安らぐことも。
6.孤独感
- 周囲の人々が理解してくれないと感じる孤独。
- 自分だけがこの苦しみを抱えているという思い。
まとめ
終末期を迎えた家族の気持ちは非常に複雑で、時には矛盾した感情が交錯します。大切なのは、これらの感情を受け入れ、適切に表現することです。サポートを求めることや、専門家と話すことも重要です。